LOGIN『庭は剪定される。棘に触れた者から。』
馬車の揺れに合わせて、膝の上の紙が微かに鳴った。 甘い匂いがまだ指先に残っているのが、不快だ。 昨夜の舞踏会の香水とは違う。薔薇でもない。もっと湿って、土に近い香り。これを門扉に挟んだのは誰。
わたくしの喉元に触れた刃は、見えないまま移動している。窓の外には、侯爵家の紋章を付けた護衛が並走していた。
父が付けた盾だ。けれど盾は、刺客を遠ざけるだけで、相手の正体までは教えてくれない。指で紙の端を折り返し、裏面を確かめる。
何もない。ただの脅しだと笑えたら楽だったのに、笑えない。 脅しが、言葉の形をした合図にも見えるからだ。前世の記憶が、勝手にページをめくる。
乙女ゲームの中で「庭」だの「棘」だのは、だいたい詩的な比喩だった。 けれど今の王都は、比喩で人が死ぬ。 昨夜だって、台詞と帳簿で王太子が落ちた。宰相邸へ向かう道は、知っているはずの景色なのに、ところどころが違う。
舗装の石の模様。警備の人数。街角の掲示板に貼られた布告の文言。 小さなズレが積もって、世界が別の盤面に置き換わった気配がする。攻略サイトにも載っていなかった宰相ルート。
その入口に、脅し文が落ちている。 わたくしは息を整えた。 怖がっている暇はない。怖いなら、怖さごと利用すればいい。「お嬢様、間もなくでございます」
御者の声に、背筋を伸ばす。
わたくしは紙を手袋の内側へ滑り込ませ、表情を作り直した。門が見えた瞬間、空気が変わった。
宰相公爵家の屋敷は、城の延長のように無駄がない。 高い塀。鉄の門。庭は整いすぎていて、風の通り道まで計算されている気がした。 歓迎の花はあるのに、甘い匂いが薄い。香りまで節約しているのかしら。馬車が止まる。
門の向こうに並ぶ使用人たちが、わたくしを見て固まった。 視線の温度が揃っていない。 敬意、警戒、好奇心、恐怖。 混ざったまま、わたくしのドレスの裾に触れてくる。先頭の老紳士が進み出た。銀縁の眼鏡ではない。けれど、目の奥が鋭い。
宰相付き執事、オスカー。 その名は社交界の噂で聞いていた。「レティシア・エルネスト公爵令嬢。遠路お疲れでございましょう」
「ご丁寧に。わたくしは元気ですわ。噂よりはずっと打たれ強いのですもの」言い切ると、何人かが息を呑んだ。
悪役令嬢が泣いてすがるのを期待していたのなら、残念だったわね。オスカーは表情を動かさないまま、ほんの少しだけ顎を引いた。
それが礼に見えるのが腹立たしい。試されている。「閣下は会議中でございます。先に執務室へお通しを」
「執務室へ、ですの」 「客間ではなく、という意味でございます」小さな逆転が起きた。
客人扱いではない。通される場所が、すでに「内側」だ。 喉の奥が熱くなるのに、笑みは崩さない。 鎖が掛かるのなら、せめて位置は選ぶ。廊下を進む。
磨かれた床に靴音が吸い込まれ、余計な反響がない。 壁の装飾は控えめで、絵画も人物画ばかりだ。花の絵がほとんどない。 庭園はあるのに、花を室内に持ち込まない家。 それだけで、主人の性格が透ける。曲がり角で、若いメイドが盆を抱えたまま立ち尽くしていた。
頬が青い。指が震えている。 リリアだろう。新人だと聞いている。「お、お通りくださいませ……」
声が裏返り、盆の上の茶器が小さく鳴った。わたくしは立ち止まり、視線を下げた。
紅茶用のカップ。白磁に金の縁。柄は薔薇ではない。幾何学模様だ。 この家は、薔薇すら政治にする。「落とさないで。あなたのせいではなくても、責められるのはあなたですもの」
「は、はい……!」リリアの肩がびくりと跳ねる。
わたくしはそれ以上、優しくも厳しくもせず、通り過ぎた。 ここで情を見せると、別の噂になる。執務室の扉は重かった。
オスカーが鍵を外す音が、やけに大きく聞こえる。中に入ると、紙の匂いが満ちていた。
書類の山。机の上だけではなく、壁際の棚にも、床の脇にも積まれている。 戦場だ。剣の代わりに紙で斬り合う場所。窓から庭が見える。
剪定された枝が、静かに影を落としていた。 わたくしの手袋の内側の紙が、熱を持ったように感じる。 まるで、ここが「庭」の中心だと告げるみたいに。そして。
机の横に、椅子がある。 主の椅子ではない。来客用でもない。 隣に置かれた、同じ背丈の椅子。 そこだけが、ぽっかりと空いている。「……その椅子は」
口に出した瞬間、オスカーがわずかに視線を逸らした。
逸らした先は、椅子ではなく、わたくしの指先だ。 触れるな、と言外に釘を刺された気がする。「閣下は、おひとりの時も、その椅子には誰も座らせません」
「なぜですの」 「さあ。噂がございますので」噂。
屋敷中の視線の温度が、さっきより冷えた気がした。「……座った方が、消えるとか」
「それは、随分と物騒ですわね」物騒。そう言いながら、胸が波立つ。
消える。 この世界で消えるのは、処刑だけではない。 名誉も、未来も、役割も、簡単に消える。 わたくしは昨夜、悪役の役割を消した。 代わりに、宰相の婚約者という札が貼られた。札を貼ったのは、あの男だ。
まだ顔すら近くで見ていないのに、息が詰まる。椅子の背に、指を伸ばしたい衝動が湧いた。
試したい。確かめたい。 けれど、同時に怖い。 あの紙の文が、再び脳内で響く。庭は剪定される。
棘に触れた者から。この椅子は棘だ。
触れた瞬間、わたくしのルートが確定する。わたくしは笑った。
薄く、上品に。自分の心臓を誤魔化すために。指先が勝手に動いた。
椅子の背に触れると、革は冷たく、やけに滑らかだった。「空席のままにしておくには、惜しい場所ですわね」
言ってしまった。
口が先に動いたのは、怖さの反動だ。 次の瞬間、背中に影が落ちた。「惜しいなら、埋めるか」
低い声。
紙の匂いより冷たく、刃より静かな声。振り向けない。
振り向いたら、鎖の形が見えてしまう気がした。「……クロード様」
「まだ名で呼ぶ段階ではない。だが、私の屋敷で私の椅子に触れた。段階は進む」背後の気配が近づく。
眼鏡の縁が光った気がした。「君に聞きたい。あの紙を持っているな」
「……なぜ、それを」 「庭の匂いがする。侯爵家の護衛では、あれは防げない」知りすぎている。
わたくしは息を呑んだ。 脅し文を見せてもいないのに、この男は言い当てた。「ここから先は、私の管理下だ。嫌なら今すぐ帰れ」
「帰りません」 声が勝手に出た。震えはない。自分でも驚くほど、はっきりしていた。背後で、布が擦れる音がした。
椅子が引かれる音。 わたくしの隣ではない。机の隣の、あの空席の椅子だ。「ならば条件を聞け。今日のうちに決める」
クロード様の声が、耳元に落ちる。「この椅子に、座るかどうかを」
目を覚ました瞬間、宰相邸が燃えているのかと思った。 壁の向こうで走る足音、廊下を切る指示の声、紙束の擦れる音。 まだ陽が昇りきらない時刻なのに、空気だけが昼間の速度で動いている。「婚約者様、失礼いたします」 扉の外から控えめな声がした直後、間髪入れずに別の声が重なる。「食堂の準備は間に合うの? 閣下の予定表、赤字が増えてるわよ!」 わたくしは寝台から身を起こし、髪をまとめる前にガウンを羽織った。 昨日まで客人扱いだった部屋が、今日はもう戦場の後方拠点だと告げられている気がする。 扉を開けると、若いメイドが盆を抱えたまま硬直していた。 わたくしの顔を見て、息を呑む。 噂の「悪役令嬢」が、ここで目を開けた。そう思ったのだろう。「ご心配なく。わたくし、噂よりはずっと打たれ強いのですわ」 笑ってみせると、彼女は慌てて頭を下げた。「申し訳ございません。閣下の朝は……その……」「速いのですね」「はい。速すぎます……!」 廊下の向こうでは、書類箱を抱えた執事が、門番に何かを叫んでいる。 来客の馬車が増えた、と。 新聞売りが屋敷前に張りついた、と。 わたくしの名が見出しに踊るのは、きっと今日もだ。 曲がり角を曲がったところで、黒い上着の影とぶつかりそうになった。 ぶつかる寸前、影が肩を引き、避ける。 眼鏡の銀縁が、薄暗い廊下の光を拾った。「……早いな」 クロード様だった。髪はきちんと整っているのに、目元だけが寝不足の色を隠せていない。「宰相邸の朝は、優雅とは程遠いのですね」「優雅に見せる余裕があれば、国庫も黒字だ」「なるほど。優雅は財政の余白、ですわね」 返した瞬間、クロード様の視線がこちらに向く。 声色は変わらないのに、空気の温度が少しだけ上がった気がした。「朝食に遅れるな。使用人が困る」「承りましたわ」 彼はそれだけ言うと、廊下の奥へ消えていった。 背中が、紙と鉄の匂いをまとっている。 なのに、その背中に追いつきたいと思う自分が、少しだけ怖い。 食堂は長いテーブルが中央に置かれ、窓から冷たい光が差し込んでいた。 席は端と端。距離が、儀礼として固定されている。「おはようございます、クロード様」「おはよう、レティシア」 互いの声が重なることはなく、ずれて着地する。 パンの香りと湯気だけが、居心地の悪
「この椅子に、座るかどうかを」 クロード様の声が、首筋に冷たく触れた。 振り向けば、黒髪と銀縁眼鏡が距離を詰めている。噂通りの腹黒宰相。けれど噂より静かで、噂より目が醒める。「……わたくしに、決めろと」 「決めろ、だが意味を理解してからだ」 机の隣、空席の椅子を顎で示す。王城の議場と同じだ。椅子は家具ではなく立場だと、この男は言外に告げている。 わたくしは手袋の中で、あの紙の角を押さえた。 庭の匂いがする、と言い当てられた脅し文。見せてもいないのに。 管理下だ、と言われても不思議ではない。むしろ遅いくらいだ。「嫌なら今すぐ帰れ、とおっしゃいましたわね」 「そうだ」 「帰りません」 自分の声が、思ったより澄んでいた。 怖いのに、引き返したくない。鎖の気配がするのに、視線を外せない。前世の画面にはなかった選択肢が、現実には山ほどある。 クロード様は息を吐く気配すら控えめに、机の向こうへ回った。 椅子に腰を下ろす動きが無駄なく、背筋がやけに真っ直ぐだ。目線だけがこちらを測り、書類を読むようにわたくしを読む。「では条件を聞け、今日のうちに決める」 「こちらも条件を出しますわ」 わたくしが言うと、眼鏡の奥の瞳が僅かに細くなった。驚きではない。想定内だという顔。「まず、エルネスト家を人質のように扱わないこと」 「当然だ」 「家を盾にすれば、君の思考が鈍る」 即答が、冷たいのに妙に優しい。 胸が跳ねて腹立たしい。安心してしまう自分が、いちばん危ない。「次に、わたくしの身辺警護は貴殿の責任で手配すること」 「侯爵家の護衛では防げない、と言っただろう」 また言い当てる。 わたくしは唇の裏を噛んだ。知られている。どこまで。「そして婚約は形式だけでは終わらせない」 「終わらせたくないなら、ですけれど」 「……ほう」 「わたくしは飾りではありません、噂の素材でもありませんの」 言い切った瞬間、胸の奥が熱く震えた。 感情が前へ出るのは苦手だ。けれど今ここで引いたら、また誰かの台本に戻る。 クロード様は指先で机を軽く叩いた。音が小さいのに、室内の空気が整列する。 ベルが鳴り、オスカーが無音の足取りで紅茶を運んできた。 銀器は磨き抜かれているのに、カップの柄は驚くほど地味だ。装飾で油断させな
『庭は剪定される。棘に触れた者から。』 馬車の揺れに合わせて、膝の上の紙が微かに鳴った。 甘い匂いがまだ指先に残っているのが、不快だ。 昨夜の舞踏会の香水とは違う。薔薇でもない。もっと湿って、土に近い香り。 これを門扉に挟んだのは誰。 わたくしの喉元に触れた刃は、見えないまま移動している。 窓の外には、侯爵家の紋章を付けた護衛が並走していた。 父が付けた盾だ。けれど盾は、刺客を遠ざけるだけで、相手の正体までは教えてくれない。 指で紙の端を折り返し、裏面を確かめる。 何もない。ただの脅しだと笑えたら楽だったのに、笑えない。 脅しが、言葉の形をした合図にも見えるからだ。 前世の記憶が、勝手にページをめくる。 乙女ゲームの中で「庭」だの「棘」だのは、だいたい詩的な比喩だった。 けれど今の王都は、比喩で人が死ぬ。 昨夜だって、台詞と帳簿で王太子が落ちた。 宰相邸へ向かう道は、知っているはずの景色なのに、ところどころが違う。 舗装の石の模様。警備の人数。街角の掲示板に貼られた布告の文言。 小さなズレが積もって、世界が別の盤面に置き換わった気配がする。 攻略サイトにも載っていなかった宰相ルート。 その入口に、脅し文が落ちている。 わたくしは息を整えた。 怖がっている暇はない。怖いなら、怖さごと利用すればいい。「お嬢様、間もなくでございます」 御者の声に、背筋を伸ばす。 わたくしは紙を手袋の内側へ滑り込ませ、表情を作り直した。 門が見えた瞬間、空気が変わった。 宰相公爵家の屋敷は、城の延長のように無駄がない。 高い塀。鉄の門。庭は整いすぎていて、風の通り道まで計算されている気がした。 歓迎の花はあるのに、甘い匂いが薄い。香りまで節約しているのかしら。 馬車が止まる。 門の向こうに並ぶ使用人たちが、わたくしを見て固まった。 視線の温度が揃っていない。 敬意、警戒、好奇心、恐怖。 混ざったまま、わたくしのドレスの裾に触れてくる。 先頭の老紳士が進み出た。銀縁の眼鏡ではない。けれど、目の奥が鋭い。 宰相付き執事、オスカー。 その名は社交界の噂で聞いていた。「レティシア・エルネスト公爵令嬢。遠路お疲れでございましょう」「ご丁寧に。わたくしは元気ですわ。噂よりはずっと打たれ強いのですもの」 言い切ると、何人かが
「王太子失脚! 舞踏会で断罪!」 「悪名高き令嬢、宰相閣下の婚約者に!」 「今度は宰相をたらし込んだのか、と市民は激怒!」 門前から聞こえる新聞売りの声が、朝の空気を乱暴に切り裂いた。 昨夜まで、わたくしは卒業舞踏会の光の中にいたはずなのに。 気がつけば、王都はもう次の物語を売り歩いている。 エルネスト侯爵家のサロンは、いつも通りに整っていた。 白いクロス。磨かれた銀器。窓辺の薔薇。 けれど、テーブルの上の新聞だけが、場違いなほど黒い。 わたくしはカップを持ち上げ、香りを確かめてから口をつけた。 この家の紅茶は、安心の味がする。 だから余計に、紙面の文字が苦い。 父が新聞を指先で弾いた。 外交官らしい落ち着きのまま、声だけが少し低い。「レティシア。見出しは派手だが、肝はここだ」 「どこですの」 「陛下が宰相の判断を全面的に支持するとコメントを出している。これが公式の線だ」 母は新聞の別欄を覗き込み、目を輝かせた。「まあ……公爵家当主からの求婚。しかも公の場で。これは伝説の始まりですわね」 「母上、伝説は厄介です」 「厄介でも、素敵よ。だって皆が驚くもの」 母の声は弾んでいるのに、背筋に冷たいものが走った。 皆が驚く。 つまり、皆が勝手に物語を決める。 昨夜、わたくしは確かに勝った。 王太子アルノルトは拘束され、マリア様も調査対象になった。 ゲームならそこで画面が切り替わって、破滅回避おめでとうの文字が出る。 でも現実は、祝福より先に噂が走る。 悪役令嬢が宰相を篭絡した。 王太子を陥れた女が、次は国を操る。 その言葉は、紙面から立ち上がって喉を締めた。 父がわたくしを見た。 政治家の目だ。 同時に、父親の目でもある。「恐れているな」 「当然ですわ。昨日まで、わたくしは悪役の役を押し付けられていたのですもの」 「だからこそ、宰相はおまえを選んだ」 「選んだ理由が才覚なら、まだ救いがありますわね。もし盾なら」 「盾だとしても、おまえは折れない。そこは父として誇っている」 誇り。 その言葉だけで涙が出そうになって、わたくしはカップの縁を見つめた。 泣くのは後。 泣ける場所を確保してから。 母が手を伸ばし、わたくしの指先にそっと触れた。「怖いのは分か
婚約を破棄する、だなんて。よりによってこの曲の最中に宣言なさいますの? 白薔薇の香りが、息をするたび肺の奥まで刺さる。王城の大広間は、天井から垂れた花飾りと硝子の燭台の光で昼のように明るい。その祝祭の中心で、わたくしは王太子アルノルト殿下の手を取ったまま、足を止めた。 音楽はまだ流れている。けれど、会場の空気だけが先に凍った。「レティシア・エルネスト。貴様との婚約をここに破棄し、王家の名のもとに断罪する」 そう、それ。聞き慣れた台詞。前世で何度も見た、断罪イベントの口火だ。 わたくしの脳内には、存在しないはずの選択肢が並ぶ。逃げる。泣く。縋る。悪あがきする。どれを選んでも、最後は追放と死。そんな筋書きだった。 だから、わたくしは笑う準備をしていた。泣き叫ぶより、笑って舞台を壊した方が、ずっと現実的だと知っている。 殿下の腕の向こう、花束のように守られた位置に、マリア様が立っていた。淡い薔薇色のドレス。庶民出身の少女が、今夜は物語の主人公の顔をしている。「レティシア様は……私を、ずっと苦しめてきました。学園でも、皆さまの前でも」 震える声。潤んだ瞳。会場のため息が、同情の波になって押し寄せる。「やっぱり、あの侯爵令嬢は」「殿下が可哀想だわ」 囁きが連鎖し、わたくしの背中に刺さる。舞踏のステップはまだ頭の中で規則正しく刻まれているのに、現実の床だけが頼りない。 殿下の背後に数名の貴族が並んでいる。胸元の飾り、指輪の彫り。薔薇を模した意匠が、妙に棘立って見えた。 ここで取り乱したら、相手の思うつぼ。そう分かっていても、胸の奥で熱いものが跳ねる。前世の画面越しではなかった。今夜は、わたくしの名を呼ぶ声が、肌に触れる。「レティシア。言い訳はあるか」 殿下の声は甘くない。勝ちを確信した者の声だ。 わたくしはカーテシーの形を崩さず、唇だけで微笑んだ。「言い訳、ですの?」「貴族らしく取り繕うな。お前はマリアをいじめ、学園の評判を汚し、私を惑わせた」 惑わせた、とは便利な言葉だ。殿下の怠慢も遊びも、全部その箱に放り込める。 わたくしは小さく首を傾げる。悪役令嬢の仮面を、丁寧に被り直す。「まあ。わたくし、そこまで器用に悪役が務まるほど暇ではありませんの」「なにを……」「殿下が“惑わされた”とおっしゃるなら、現実の帳簿をご覧になってはい







